違うことを受け入れる痛み【多様性】

幼少期の私のいた環境。それは良いのか悪いのかわからないけれど、インターネットのまだ出だしの頃に、いち早く世界の動きをキャッチすることができる場所にいたこと。

インターネットが果たすであろう役割を、CATVから流れるBBCのニュースや、新聞、各国の書籍をはじめ、何より、英語、フランス語、中国語、ロシア語に特化した大人たちに囲まれていたので、インターネットほど、リアルタイムでは無いにしろ、世界の現地に頻繁に行ったり、来たりしている大人の日常会話から、なんとなしに状況を把握しだしていた。

くだらない事から、驚くべき事まで。パリのおじさんは、日本人の女性をパトロンにしたい方が一定数いる事や、ロシア語圏に関わる仕事をしている人は、政府のブラックリストに名前が載っている事など。一律のトーンで語られていたその頃、幼少期に体験できた事は、今の私に何をもたらしているのかは分からないけれど。

インターネットが出来て、周りの子どもたちと、似たような環境で過ごせるようになればなるほど、生きやすくなっていったように感じた。

当時は、子どもの日常に、グローバリゼーションを持っていても、友達を作るのには、何の役にも立たなかった。

そんな中、今でも、大人の現実に疲れた時の逃避先に、【映画】を見るという、ハリウッド以外の映画があると言うことを知っている事は、私にとって救いの一部になったかもわからない。日常は、映画のように終わりが見えない。